1945

戦後の生産再開

終戦とともに、磨板ガラスや安全ガラスは軍需品との判断から二島工場、四日市工場では即刻、生産を中止した。しかし、中村文夫社長の胸の内は違っていた。中村社長は「焦土と化した日本で、復興資材である板ガラスを一刻も早く、一枚でも多く供給し、平和産業である板ガラス工業が全力をあげて国家に奉仕すべき」との使命感に満ちていた。中村社長は両工場に生産を再開するよう命じ、原材料が十分でない中、政府からは年内8万箱の板ガラス生産を指示されたが、それを上回る9万箱の生産をわずか4ヶ月間で達成するなど、日本復興へ向けて全力を注いでいった。