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コルバーン製法
(連続板引法)の導入

発起人 杉田與三郎(左)

コルバーン製法(連続板引法)の導入

コルバーン製法の開発

19世紀における板ガラスの製法は手吹法で、生産性、品質とも低レベルに留まっていた。
1905年 米国人 アービング・W・コルバーン(Irving W Colburn)が連続板引法の研究に取り組んだ。1907年 彼はペンシルバニア州に小さな工場を建て、苦心の末、実験機を作ったが、できたガラスはとても売れるものではなかった。
しかし、その後も彼は諦めることなく少ない資金で研究を続けた。1909年9月に画期的な水平式板引法により世界初のガラスを引き上げることができたが、相次ぐ設備故障と資金不足のため運転を続けることができなくなった。1912年2月 彼はオーウェンス・ボトル・マシン・カンパニー(オーウェンス社)の関係会社であるトレド・グラス・カンパニー(トレド社)にコルバーン機の製法特許権を買い取ってもらい、トレド社も資金を投じて新しい実験工場を彼に提供した。マイケル・J・オーウェンス(オーウェンス社創設者)の援助も加わって、ようやく実験は成功し、オーウェンスはエドワード・ドラモンド・リビーとともに1916年5月、リビー・オーウェンス・シートグラス・カンパニー(リビー・オーウェンス社)を設立し、トレド社からコルバーン機の製法特許権を取得して、ペンシルバニア州に近代的な工場を建設した。

アービング・W・コルバーン
アービング・W・コルバーン

コルバーン製法の技術導入契約

杉田與三郎は1885年に大阪市で薪炭商を営む家に生まれた。杉田の家は住友別子鉱業所に木炭を納入するなど住友家と密接な関係にあった。杉田は1909年 シカゴ大学を卒業後、1912年 大阪の島商店(現 島貿易)に入社し、1914年 オーウェンス製ビン機械の導入交渉のため米国を訪問した。このとき杉田はたまたまトレド社がコルバーン式板ガラス製法の工業化を目指して研究しているのを見学する機会があり、彼は板ガラス事業に深い関心を抱くことになった。
帰国した杉田はひそかに板ガラス事業へ転身することを決意し、1917年9月 再度渡米した折に、渡米中の住友総本店支配人 山下芳太郎をニューヨークに訪問し、板ガラス製造計画への援助を懇願した。山下も「国家のためになる事業には積極的に進出すべき」と賛同し、杉田はリビー・オーウェンス社と特許権譲り受けの交渉を行った。
しかし、当初 200万円程度とみていた特許権料は400万円以下では譲渡できないと交渉は暗礁に乗り上げた。数次にわたる交渉の結果、ようやくリビー・オーウェンス社と意見が一致し、1917年12月 特許権譲渡の契約書が取り交された。

杉田與三郎
杉田與三郎
山下芳太郎
山下芳太郎
特許証
特許証
【 主な内容 】
杉田は板ガラス製造販売する新会社を設立する
リビー・オーウェンス社は特許料として、新会社の株式20,000株(額面100万円, 発行株数の1/3)と10万ドルを受け取る

杉田がこの契約に成功したときは、リビー・オーウェンス社も初めて板ガラス製品を出してわずか数か月しかたっておらず、しかも世界でこの特許を譲り受けたのは杉田ただ一人であった。

日米板硝子株式会社 設立

リビー社技術者と協働作業
リビー社技術者と協働作業

日米板硝子株式会社 設立

帰国した杉田は新会社設立に取り掛かった。社名はリビー・オーウェンス社との関係を示すため「日米板硝子株式会社」とし、創立総会が1918年6月25日に開催された。しかし、思いもよらない障害が待ち受けていた。リビー社の出資証明にはコルバーン製法の特許原本謄本が必要であったが、手違いにより日本での特許権は取り消されていたのである。直ちに特許権復活の申請を行ったが、取り消し処分された特許の復活は認められず、未審査のものだけが、10月になって登録された。杉田は再度、渡米し、さきの特許譲渡契約書を取消し、新たな契約書を締結した。帰国後、創立総会は11月22日に開催され、日米板硝子株式会社が設立された。

完成した二島工場(後の若松工場)
完成した二島工場(後の若松工場)

コルバーン機の設置と生産開始

コルバーン機
コルバーン機

コルバーン機の設置と生産開始

新会社の工場用地は福岡県遠賀群島郷村字(現 北九州市若松区二島)の二島(ふたじま)に決定し、1919年 二島工場(のちの若松工場)の建設が始まった。建築工事と並行して生産設備の設置が行われ、11月に米国からコルバーン機も到着した。12月にはコルバーン機の据付、運転指導のためリビー・オーウェンス社から現場監督オットー・C・ミラー以下、技術陣が来日し、設備設置の指導にあたった。
そして待望のガラスの引上げ作業が1920年10月1日午前零時に開始された。ミラーら外国人技術者の手でコルバーン式製板機の運転が始められ、午前1時に板状のガラスが切台に姿をあらわした。始めは斑点のようなものがガラス一面に出ていたが、周りがほのぼのと明るくなる頃には透明ではないが、3㎜ほどの厚みのガラスが順調に出るようになり、朝8時ころにはくもりはきれいに消えていき、試作は見事に成功した。